ハイジの心で感じるままに

自然とともに、私を生きる。

人が持つ「言葉のチカラ」について。憎しみの連鎖を止めるためにどうしたらいいだろう

 

私は、人が持つ言葉のチカラを信じている。

 

なぜなら、

私自身、たくさんの言葉の持つチカラに

救われてきたからだ。

 

 

心を傷つけられるのが言葉であれば、

救われるのもまた言葉である。

 

 

言葉の持つチカラについては

いつか記事を書こうと思っていた。

 

まさか、こんなきっかけで

書くことになるとは思っていなかった。

 

 

昨日、とても悲しい報道を目にした。

 

若く未来ある尊い命が、突然絶たれたのだ。

 

詳細はわからないし、

本当の真実は本人しかわからない。

 

亡くなった方への誹謗中傷だけが

取り返しのつかない結末の原因だとも

言い切れない。

 

 

 

しかし、

この件だけに限らず、

 

目に見えない世界で交わされる言葉については

特に、本当に一人ひとりが

意識しなければならない。

 

 

誰かに言葉をかけるときには

「相手がどう感じるか」

これを想像すること。

 

これが大前提だ。

 

私が言いたいのは

「相手を気持ちを理解すること」ではない。

 

「相手を気持ちを理解しようと想像すること」

が大切だと思うのだ。

 

 

そもそも誰かを理解することなんてできない。

 

自分だって自分のことを完全に理解することはできないのに、

三者が誰かを完全に理解できるはずはないからだ。

 

 

だからこそ、

 

「相手の気持ちを想像すること」が

 

大切なのだ。

 

 

 

「言葉を発する前に立ち止まろう」

というが、

 

言葉を発する前に

「相手の気持ちを想像」すれば、

自然と立ち止まれる。

 

その立ち止まる時間、

文字を打つ指を止める時間で、

 

誰かを救うことができるかもしれないのだ。

 

 

 

そして、

ここからが本当に大切なこと。

 

 

私はネットでこのニュースの記事を読み、

下のコメント欄を見た。

 

そこには、

 

「誹謗中傷した人の神経を疑う」とか

「人として最悪だ」とか

「こういうやつは徹底的に探し出して、刑罰を与えるべきだ。目には目を、歯には歯をだ。」

とか…

 

誹謗中傷した人たちを

誹謗中傷する言葉がたくさん並んでいた。

 

私はコメントした人たちに聞きたい。

 

あなたたちは誹謗中傷した人たちのことを

「想像」しましたか?

 

と。

 

 

誹謗中傷した人だって、

 

たまたまむしゃくしゃすることがあって、

書き込んだのかもしれない。

 

周りの人も言ってるから言ってもいい、と

軽はずみな気持ちで言ったのかもしれない。

 

そして、もっと言うと、

 

もしかしたら子どものときに

親からひどい言葉をかけられ

育てられたのかもしれない。

 

本当は優しい言葉をかけたいのに、

かけ方を知らないのかもしれない。

 

誹謗中傷する最悪な人に見えるかもしれないが、

その人たちさえもまた、被害者かもしれない。

 

そんなことを、少しでも想像しただろうか。

 

 

もし、そのことが想像できたとしたら、

コメント欄にそんなこと

書けないのではないか、と私は思う。

 

 

コメント欄に書く人たちは、

自分の正義に基づき、

悪を批判しているだけ、

と言うかもしれない。

 

しかし、そんなことをしてしまう時点で、

憎しみの連鎖は終わることはない。

 

誰かを誹謗中傷してやろうと思う人は、

誰かから誹謗中傷された人でもあると思う。

 

いくら正義であったとしても、

コメント欄で悪を誹謗中傷することで、

また誹謗中傷される被害者が出る。

 

そして、またその被害者が

誰かを誹謗中傷する。

 

その連鎖を止めることができなくなる。

 

本当に悲しすぎる。

 

 

いくらひどい家庭環境で育てられたからといって、

誰かに誹謗中傷された被害者だからといって、

 

誰かを傷つけていいわけではない。

 

しかし、

どんな悪だと思われる人であっても、

やはりその人を「想像すること」なしには、

どんな言葉も発するべきではない、と私は思う。

 

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綺麗事だと言う人もいると思う。

それは十分わかっている。

 

 

しかし、

自分が正義だと思い込み、

誰かを批判することによって、

憎しみの連鎖が続くこと、

 

これこそが本当に悲しいことだと

私は感じるのだ。

 

 

悪を批判したからといって、

尊い一人の命が返ってくることは絶対ない。

 

そうであるならば、

批判するのではなく、

どうすればいいかを考えることや

想像すること、

 

そういう風に言葉のチカラを使えないだろうか。

 

答えは出ないかもしれない。

誰にとっても完璧な正しい答えなんて

存在しないからだ。

 

 

けれど私は、

言葉のチカラを心から信じる一人として、

 

そうやって使われた言葉は、

いつか回り回って

誰かを救うことができる、と信じている。

 

 

「言葉のチカラ」をどう使えば、

尊い命を救うことができるか…

 

一度立ち止まって、考えませんか?